タラちゃんが交通事故で亡くなり、一年が経っていた。
今だに姉さんはショックから立ち直れないでいる。だけど傍から見れば以前とな
んら変わりのない元気な姉に見えるだろう。
それは、姉さんの中では全てが以前のままだからだ。
サザエ「なに言ってるのよカツオ、タラちゃんならここにいるじゃない」
ボロボロになった縫いぐるみを抱いた姉は、それを我が子だと信じているのだっ
た。
カツオ「何言ってるんだよ姉さん、しっかりしてよ……」
サザエ「私はしっかりしてるじゃない、あんたこそ顔色悪いわよ、ねえタラちゃん」
姉さんは同意を求めるように腕の中の縫いぐるみに微笑みかける。
もちろん縫いぐるみは何も答えない。
サザエ「今日の夕飯はハンバーグにしようかしら、カツオが元気になるように」
カツオ「わ、わーい……やったー」
サザエ「タラちゃんも好きよね、ハンバーグ」
もちろん縫いぐるみは何も答えない。
サザエ「カツオ、私は夕飯の支度をするからあんたはタラちゃんと遊んでてくれる?」
カツオ「わかった……じゃあ、あっちで遊ぼうか、タラちゃん」
僕は姉さんから縫いぐるみを受け取る。抱き抱えるとだらりと四肢が垂れた。
僕はそれを持って自分の部屋へと向かう。
とても姉さんの視線が届くところにはいられなかった。
カツオ「ワカメ……ここにいたんだ」
ワカメ「うん、……あ」
ワカメは振り向き僕の手にある縫いぐるみに視線を向けると、僅かに表情を強
張らせた。縫いぐるみを息子だと思い込む姉について、どう思っているのか話合っ
たことはない。
しかし、一時期のふさぎ込んだ姉さんの姿よりは今の方がよいのでは、と考え
ているのは同じだろう。
ワカメ「お兄ちゃん、それ……」
カツオ「ああ、姉さんがタラちゃんと遊んでろってさ」
ワカメ「ちょっと貸して」
カツオ「あ」
ワカメ「ここ、ほつれてきてるわ、直さないと……」
縫いぐるみは姉さんが四六時中連れ回しているせいか、ずいぶんとボロボロに
なっていた。
男の子の形を模したその縫いぐるみは、タラちゃんに似ていたからつい、と父さん
が買ってきたものである。
タラちゃんが死んでから一ヶ月程経った頃のことだった。
皆はそれを見せたら姉さんがタラちゃんを思い出してよけいに悲しむのではない
か、と懸念していたが、事態は予想外の方向へ向かった。
サザエ『あら、タラちゃん! こんな所にいたのね』
仏壇の近くに置いていたその縫いぐるみを、姉さんが明るい声を出しながら抱
き上げたのだった。
久しぶりに見る姉さんの笑顔に、家族は皆喜んだ。
タラちゃんを失った悲しみは癒えはしないだろうけど、しばらくはこの縫いぐるみで
気を紛らわせるのではないかと思った。
一日中暗い部屋に篭り、ろくに食事もとれないような生活になっていた姉さん
は、その日から変わった。
いや、元の姉さんに戻ったのだ。
タラちゃんという存在が欠け、崩れていたバランスが縫いぐるみによって埋められた
からである。
姉さんは縫いぐるみにタラちゃん、と呼びかけまるで本当の子供のように接した。
皆、始めの頃はそれを暖かく見守っているだけだったけど、それが一月経ち、
二月経ち、変わらず縫いぐるみを可愛がり続ける姉さんが、さすがに不安に思え
て来た。
ある日のことである、ついに母さんが姉さんから縫いぐるみを取り上げようとし
た。
フネ『サザエや、もういい加減にしたらどうだい』
サザエ『え、何が?母さん』
フネ『これは……』グイッ
サザエ『ああっ、駄目よそんなに乱暴にタラちゃんを引っ張っちゃ!』
フネ『これはタラちゃんなんかじゃないのよ……』
サザエ『あ、ああ……』
フネ『分かってくれたかい?』
サザエ『ほら母さん、タラちゃんが痛がってる!離してあげて!』
フネ『サザエ……』
サザエ『大丈夫?タラちゃん』
姉さんはすっかり縫いぐるみをタラちゃんだと思い込んでいたのだ。
その件以来母さんは姉さんのことには触れないようになってしまったし、他の家
族も、もっと時間が経てば、元に戻るだろうと楽観的に考えていた。
それにどうしようも無かったのだ。
父さんと母さんは古い人で、姉さんを精神科に連れていくことを決断しかねて
いた。マスオ兄さんも我が子を失った悲しみは深く、自分以上に傷ついている妻
を狂人扱いすることは出来なかったのである。
そうして今に至る訳だが、一年近く使われ続けている縫いぐるみは所々ガタが
出てきている。
ワカメや母さんが、姉さんの目の届かない所で直しているのだが、いずれ限界が
くるだろう。
カツオ「それ、まだ大丈夫そうかい?」
ワカメは頭部に綿を詰め足しながら曖昧に頷いた。
ワカ「うーん、そろそろ危ないかもしれないわね」
薄汚れた縫いぐるみがワカメの手の中でグラグラと揺れている。
綿を詰め終わり、開いた部分を針と糸で縫い合わせるワカメの手元を僕は
ぼーっと眺めていた。
何度もやっている作業のため、スムーズに動く針の動きに見とれていると不意に
首筋に視線を感じたような気がした。
カツオ「……誰?」
僕は勢いよく振り向く。
瞬間、ぴしゃりと襖が閉められた。それを開いて後を追い掛ける勇気は僕には
無かった。
ワカメ「どうしたの……?」
カツオ「あ、ああ……誰かが覗いてたみたいだったからさ」
ワカメ「もしかして……!?」
カツオ「大丈夫だって……それは、ない……よ」
そんな根拠はどこにもないのだけれど僕は掠れる声で呟いた。
カツオ「姉さんの訳……ないじゃないか、はは」
やがて母さんの声に呼ばれ、僕とワカメは夕食の席に着いた。
カツオ「さ、さあタラちゃん、姉さんの所に行きなよ」
僕は姉さんの隣に縫いぐるみを置く。
先程のあれは本当に姉さんでは無かったのだろうか。
もし部屋を覗いていたとしたらワカメが縫いぐるみを修理していたのを見ていたか
もしれない。
姉さんにとってこの縫いぐるみはタラちゃんなのだ、その体を開き、針を刺す場面
などどのように映るだろう。
サザエ「さあタラちゃんいらっしゃい、おいしそうなハンバーグでしょう」
僕は笑顔で縫いぐるみを抱き抱える姉さんに、心の中で安堵のため息をつい
た。
サザエ「はい、タラちゃんあーんして」
サザエ「おいしい?そう、うふふ」
サザエ「あらー駄目じゃないこんなにこぼしちゃって……」
サザエ「タラちゃんもそろそろ一人で食べられるようにならなきゃ駄目よ」
食卓では姉さんの楽しそうな声が響く。
縫いぐるみは口に押し付けられた食べ物をただボロボロと床に落とすばかり。
最近ではすっかり見慣れた我が家の食事風景だ。
サザエ「あら?どうしたのタラちゃん」
サザエ「もう食べないの?」
サザエ「食欲がないってどうしたのよ」
サザエ「頭が痛いの?うーん、風邪かしら」
サザエ「少しお部屋で横になりましょうか、そうね、それがいいわ」
サザエ「母さん、私タラちゃんを休ませて来るわね」
姉さんから心配そうな言葉が続く、どうやら縫いぐるみの具合がよくないらしい
のだ。
フネ「あ、ああ……そうかい」
姉さんは縫いぐるみを大事そうに抱き抱えると、寝室へと向かった。
僕らが食事を終えても、姉さんは戻らなかった。
皆特に気にもせずに、母さんとワカメは食器の片付け、父さんとマスオ兄さんは
晩酌を始めていた。
することがなくなった僕は、部屋に戻って漫画でも読もうかと廊下へ歩き出し
た。
姉さん達の寝室の前を通過する時、妙な音が聞こえてきた。
思わず立ち止まり耳を済ませてみると、その音はどうやら人の囁き声のようだっ
た。
止めておけばいいものを、僕は思わずその場に立ち止まり、耳を済ました。
サザエ「……大丈夫よ、タラちゃん……大丈夫だからね」
どうやら姉さんがタラちゃんを気遣う言葉をかけているようだった。どこか抑揚を
無くしたようなその声に、僕は少しだけ違和感を覚える。
サザエ「大丈夫だからね、すぐに良くなるわよ、すぐに……」
僕頭のの中には、姉さんがタラちゃんに添い寝をしてあげている微笑ましい光
景が浮かぶ、ほんの二年前には当たり前だったその光景。
サザエ「ほらね、こうやって悪い所を……」
頭が痛いと言っていたから、撫でてあげているのだろうか。
たとえ全てが姉さんの頭の中で作られた話であっても、当たり前な親子の会話
が部屋の中で交わされている。
だけど次の瞬間、頭に浮かんだ微笑ましい親子の図は音もなく崩れさった。
サザエ「痛いところ全部……とってあげるからね」
プチプチと何かを引き契るような音が聞こえてきた。
とってあげる、とはいったいなんのことだろう。
縫いぐるみを我が子と思い込んでいるはずの姉さんが、いったいなにをしている
のか。
僕の頭の中で警報がなる、早くこの場を離れろ、と。さもなくば見てはいけない
ものを見てしまうぞ、と。
だけど僕はその場から動けなかった。
サザエ「ほら……これが悪いのよ」
サザエ「悪い物を詰められて……痛かったでしょう?」
サザエ「可愛いタラちゃんに針を刺して……こんなことを……」
サザエ「可哀相に……可哀相に……うっうぅ……」
見られていたのだ。ワカメが縫いぐるみを直していたところも全部。
僕の背中に、凍り付いてしまったのかのような嫌な感覚が広がった。
サザエ「うっううぅう……」
部屋の中からは姉さんの嗚咽の混じった声が聞こえてくる。
僕は相変わらず一歩も動けないままに、部屋の襖を凝視していた。
その時、不意に肩を叩かれ僕はヒッと情けない、声にもならないような短い悲
鳴を漏らした。
ワカメ「お兄ちゃん?何やってるのよ、こんなところで」
カツオ「ワ、ワ、ワカメ……」
いつもの調子で話し掛けてくるワカメに、僕は震える声でようやく答えた。
頭の中では姉さんに気づかれてしまったのではないかということでいっぱいで、
一秒でも早くこの場から立ち去りたかった。
ワカメ「母さんにこれを姉さんの部屋にって頼まれたのよ」
ワカメの手の中には水とお粥の乗った盆があった。
母さんが、姉さんに縫いぐるみに食べさせるように、と作ったものだろう。
ワカメ「そこ、開けてお兄ちゃん」
カツオ「……」
僕は瞬時に返事を返すことが出来なかった。
ワカメはまだ知らない、姉さんがさっき僕らの部屋を覗いていたということを。この
部屋の中で起きているであろう事を。
開けてはいけない、そんな予感が頭に渦巻く。
だけどいつの間にか止まっていた姉さんの嗚咽に、先程の声の現実感が薄ら
いでいた。
中にいるのは僕の姉さんだ、それは紛れも無い真実。
姉さんの部屋の襖を開けることにどんな危険があるものか。
僕は、静かに襖を横に引いた。
ワカメ「姉さーん!こ、……」
一歩先に部屋へ踏み出したワカメ、その足が止まった。
カツオ「ワカメ?」
僕は固まってしまった妹を押しのけるように姉さんの部屋を覗きこむ。
カツオ「姉さん……?」
ワカメ「いやあぁあああ!」
ワカメは悲鳴を上げると手に持っていた盆をひっくり返しながら、その場から走り
去った。
僕は何も反応することが出来ずに、姉さんの事をただ眺めていた。
部屋中に散乱する白い綿。
縫いぐるみにぎゅうぎゅうに詰められていたそれを全て引きずり出したようだ。
抜け殻のようになった布を抱きしめた姉さんが虚ろな目でこちらを眺めていた。
サザエ「……」
なにやら懸命に口を動かす姉さんに、始めは何かを話しているのかと思ったけ
れど、違ったようだ。
中身の抜けた縫いぐるみを持ったのとは逆の手を口許に運ぶ、その手には綿
が一掴み握られていた。
姉さんはそれを食べていたのだ。
サザエ「……」
僕は状況を理解するのに少し時間がかかった。
その間にも姉さんは何度か手を動かし、口いっぱいに綿を詰め込む。
サザエ「うっうううぐっ」
カツオ「姉さん!」
姉さんの苦しそうな声に僕はようやく動くことが出来た。
カツオ「何やってるんだよ……!」
僕は姉さんの口に手を突っ込むと、中の物を掻き出そうとした。
カツオ「なんでこんな……窒息しちゃうよ!!」
姉さんは綿を次々に飲み込んでいたようで、僕はそれを吐かせなくては、と
片方の手で背中を叩き、もう片方の手の指を喉の奥へと押し込んだ。
サザエ「うあえっえおぉ」
カツオ「痛いっ!!」
姉さんは苦しかったのか、僕の指の付け根を強く噛んだ。
僕は痛さに指を引いたけど、噛み付く力が強すぎて抜けない。
サザエ「ふうぅうう、ふうぅううぅ」
姉さんは荒い呼吸を繰り返している。
僕は空いている方の手でその背中をさすった。
噛み付かれた手は姉さんの口の中で血を流しているようで、指を伝い赤いも
のが見える。
フネ「サザエッ!?な、な、なんだいこれは……」
ワカメが呼んだのだろう、母さんが部屋に入ってきた。
一瞬動揺したようだが、気丈な彼女はすぐに状況を把握し、僕らの側に座
る。
フネ「サザエ、サザエわかるかい?ほら、カツオの手を離しておやり」
サザエ「うぅう……」
母さんの言葉が届いたのか、一瞬顎の力が弱まった。
その隙に僕は手を抜いた。
かみ砕かれ無かったのは幸いだけど、指の根本には引き裂かれたような傷がつ
いていた。
鋭利な刃物でつけられた傷よりも、そうでない物で切られた方が酷い怪我に
なるという。
この傷はしばらく残りそうだ。
フネ「ほらゆっくり口の中のものを出しなさい、苦しいでしょう」
サザエ「うあぉお」
姉さんは母さんに背中をさすられながら、口の中の綿を吐き出していく。
僕の血で染まった綿は、まるで真っ赤な髪の毛のようにみえた。
サザエ「あぁあっ……たらちゃ……が」
フネ「サザエ、これはタラちゃんじゃないんだよ……」
サザエ「ううぅうああぁあ」
姉さんは母さんの膝に顔を埋めるようにして泣いていた。
次の日、何もかも元通りになったかのようだった。
母さんと姉さんはいつも通り二人で並んで朝食の支度をしていたし、笑い声も
響いていた。
ただ、そこにはもう縫いぐるみはなかった。
ワカメは昨日の出来事がショックだったのか口数が少なかったが、明るく笑う姉さ
んを眺める視線に暗いものはなく、学校に行く時間にはいつもの彼女に戻って
いた。
縫いぐるみをタラちゃんと呼んでいた姉さんは以前と変わらないようでいて、やは
りどこか異様だった。
だけど今朝の姉さんは昨日までの姉さんとは雰囲気が違っている。
きっと姉さんもタラちゃんを失ったショックから立ち直り、現実を受け入れられるよう
になったのだ。