立秋を過ぎ、真夏の暑さもようやく収まってきたこの頃。涼しい気持ちの良いが風も出てきました。秋の入り口にほんのり心温まる記事をご紹介します。
ハエ事件
うちわを見ると思い出す事件がある。
私が小学2年の頃だった。お盆にお坊さんが見えて、読経が始まったときのこと。4歳だった弟と私は、お坊さんの後ろからうちわで風を送る役目を仰せつかった。当時、我が家に扇風機はなく、うちわが活躍していた。
私は200まで、弟は100まで数えたら交代することにし、弟の番になった。
すると、どこから来たのか、大きなハエがお坊さんの周りを旋回し始めた。顔をしかめ、頭を振りながらお経を唱えるお坊さん。
弟が目を丸くして小声で言った。
「姉ちゃん、ハエが頭にとまった!」
私は言った。
「うちわであおがんね」
しかし、ハエはお坊さんの頭頂部にぴたりと張り付いたまま、微動だにしない。
「姉ちゃん、どうする?」と指示を仰ぐ弟に、私は小声で、
「よか。ハエは血を吸わん。じっとしとき」
次の瞬間、お坊さんの頭の上で何かがはじけて飛んだ。観ると畳の上に大きなハエがひっくり返っていた。弟の手にはハエたたきが・・・。
母は真っ青になり、弟の頭を畳にこすりつけながら平謝り。罰当たりなのは弟なのかハエなのか。
あれがハエたたきではなくうちわだったらまだ罪は軽かったのでは、と今も悔やまれる。
(70歳 佐賀県鳥栖市)
京都との縁
今から40年近く前、京都に見せられた私は、せっせとアルバイトをして旅費をため、京都へ出かけたものである。
宿舎は八坂神社の近くにあった女性専用のホテルだった。手ごろな料金で部屋も清潔で可愛く、食事もおいしくホテルマンの方々もとても親切で大変気に入り、何度もお世話になった。
このホテルの目玉の一つは、時折夜、祇園の舞妓さんが訪れ、間近でトークや踊りを見せてくれること。京都の雰囲気を満喫でき、楽しみであった。
この思いを新聞に投稿したところ、京都の方より丁寧なお便りを頂き、それが縁で長い年月、文通の友となった。
その方は、商売をされていて生粋の京都人であり、教えてもらうことが多々あって大変ためになった。
ある年の夏、手紙と一緒にうちわが送られてきた。
うちわといえば、私にとってお店や町中で宣伝を兼ねて配られるものとばかり思っていたが、頂いたうちわには赤い色で芸子さんの名前が記されており、シンプルな中にも粋や艶が漂ってくるようで見惚れてしまった。
うちわには扇子とは異なる日本文化が息づいていることも改めて知り、今でもうちわを目にすると京都の旅が懐かしくよみがえる。
(64歳 福岡市西区)
風呂を沸かす
自営業で働く父と母。忙しい母に代わり私は小学6年生の頃、石炭、薪、古新聞紙を燃料にして、お風呂を沸かしていました。木おけ風呂(鉄砲風呂)といい、現代ではほとんど見かけなくなりました。火をたくために鋳物製の釜と煙突がありました。
火をおこすとき、柿渋を塗った茶色で丈夫な「渋うちわ」を使っていました。パタパタと仰ぎますが、最初は良く失敗し、煙が目にしみて涙がこぼれました。
でも慣れてくると紙から薪、石炭へと火が移り、真っ赤な炎が見えます。私は火が消えないように一生懸命に仰ぎ続けました。母が、
「たかちゃんがおると助かるよ。ありがとう」
と言ってくれました。嬉しくて自信と勇気がわきました。
夜になると、私は妹や弟と「いちにいのさん」で蚊帳の中に入ります。私たち3人が寝てしまうまで、母はうちわであおいでくれました。私のパタパタする、火おこしの風とは大違いで、母があおぐうちわの風は、何とも言えないふんわりとした、とても気持ちいい風でした。
汗だくの母は私たちを見守り、笑っていましたね。
その母は84歳になりました。母にたくさんたくさん、孝行したいと思います。
(主婦・58歳 福岡市西区)
やさしい風
明治24年生まれの父、大正元年生まれの母は20歳もの年の差を超えて結婚し、私と妹が誕生した。終戦後、物資不足の中を何不自由なく育ててもらったことに感謝している。
父にとって、老いが近づいてからの子育てはどれほどの生き甲斐であり、成長への大きな責任を背負う日々であったかと今、わが身に変えて思い返している。
私は今からは想像できないほど病弱な子供だった。毎年夏になると、腸炎らしき病で何日も点滴注射をしながら寝ていた。そんな私に柔らかな涼しい風。それは左右に揺れるうちわの風であった。
現代のエアコンからは得られない愛情いっぱいの風で、私の回復を祈る父母の優しいうちわの風であった。寝ずに見守っていたのであろう。目を覚ませばゆらり、ゆらりとうちわが動いていた記憶がある。
父母ともに88歳までの生涯だった。
親孝行するには、私は余裕のない日々を過ごしていた。現在の猛暑の中、設定温度で守られた部屋の片隅に、数本のうちわがある。父母が与えてくれた心地よい風を懐かしみ、感謝の手を合わせる夏の日である。
(自営業・68歳 福岡県飯塚市)
母をあおぐ
子どものころ、うちわは大事な道具の一つだった。
七輪の火をおこすのは子どもの私の役目で、少しの火種をうちわであおいで全体に火が勢いづいたら母が鍋をかけた。
何もない戦後、夕涼みにうちわは活躍した。蚊を追い払い、涼しい風を起こす。子どもが寝付くまで、蚊帳の中で母がうちわであおいでくれた。お客様には、それとなくゆっくりあおいで風を送っていた。
うちわは、あちこちの商店からもらうので、時々絵がおなじのがあったりした。妹とtじゃんけんをしてわけたりした。
うちわの骨は竹を細くさいて作ってあり、あおぐとしなって風が柔らかく優しいので、母は病んで伏している父をあおいでいた。妹と交代であおいでいたことを思い出す。
母がおいて病み、伏すことが多くなり、眠れぬと夜半に言うときは、うちわでゆっくりあおいでいると寝息がしてくる。ほっとしてしばらくあおいでいた。
母が逝って10年が過ぎたが、いまだにうちわに頼っている。「貧乏性ね」と言われても私の必需品だ。あと一か月くらいは頼ることが多いだろう。
うちわさんよろしくね。
(74歳 福岡県糸島市)
新婚の日々
梅雨が明けると日田盆地は暑い夏の到来。午前中から気温は30度を超す日が続く。夏になるといつも、うちわの思い出がよみがえる。
60年前の新婚のころ、天井の低い、風通しの悪い6畳の狭い借家の部屋で生活していた。貧しくて扇風機も変えず、夫と互いに、あおぐ数を100回数えたら交代してまた数え、それを繰り返してあおぎあった。
共働きで慌ただしく貧しかったけれど、若さゆえか、そのような暮らしもさして苦にもならなかった。過ぎ去った日々のなにもかもが懐かしくいとおしい。
いまはあちこちから頂いたカラフルなうちわを、めったに使うことなく部屋のインテリアとして飾っている。部屋ごとにエアコンを取り付け、ちょっとでも暑ければすぐにエアコンのスイッチを押す。それも手元のリモコンで。ぜいたくな暮らしになったものだ。
浴衣姿にうちわ、縁側での夕涼み、そのような夏の風物詩も昔語りになってしまったのだろうか。夏の夕暮れ時、遠き日を顧みて、なんとなくふっと寂しさを感じる。
団扇にて 夫と扇ぎあひし遠き日を
なつかしみつつ エアコン入る
(主婦・82歳 大分県日田市)
来年まで
暦の上では立秋を迎えましたが、残暑厳しい毎日が続いております。生活水準の向上で文明の利器であるエアコンが普及し、暑さをしのぐことができて有り難いことです。
が、私には、やはり扇風機とうちわを使った方が向いています。
仕事中はうちわは使えませんが、テレビを見るときなどは扇風機とうちわを使って、涼をとっています。もう40年も前ですが、義母が
「うちわであおぐのはきつかもん」
といったことを思い出します。今の時代に健在だったらエアコンで涼を楽しませられたのに、と悔やんだりします。
昔はうちわはお店からの贈答品が多く、たくさん頂いていました。私にとっては今でも欠かすことのできない代物です。うちわを使って電気代の節約、省エネにもなり、一挙両得です。
涼しくなっていらなくなったら、来年のため袋に入れて大切にしまいます。でも、果たして来年までご縁があるのだろうかと案じられます。
夏の思い出
まだクーラーもなかった子どものころ、夜寝るときには母がうちわであおいでくれました。顔に当たる優しい風は心地よく、幸せな気持ちで眠りについていたことを覚えています。
お盆には浴衣を着て、紙で作った花を頭と手に付け、少しだけ化粧をしてもらって子ども会の盆踊りに行きました。うちわを両手に挟み、くるくる回して踊る曲がありました。持たないで踊る曲の時は、うちわを浴衣の帯に差し込みます。背中にさすので背筋がすっと伸びました。
お仏壇の前や庭で踊ります。終わった後にもらえるジュースが楽しみでした。
夕涼みもよくしました。庭に円台を置き、蚊取り線香を付け、手にはうちわです。扇いだり、蚊を追い払ったりします。夜になると夜空いっぱいに輝く星を祖父と眺めました。
テレビのリモコンもなかった時代、夏向けの怖いテレビ番組を母や姉とみて、怖くなってみんなふすまの向こうに逃げていき、誰がチャンネルを変えに行くかでもめていたことも、この投稿文を書きながら思い出しました。
昭和34年生まれ、私の夏の思い出です。
(学校給食調理員・56歳 福岡市早良区)